「自分の物差し」が人間関係を狂わせる瞬間
ベテランが初心者を伴って、
登山へ出かけた時のことを想像してみてください。
毎週のように山を歩いているベテランと、
年に一度登るかどうかの初心者。
同じ登山道を、同じ時間に出発したとしても、
30分も経てば両者の距離は大きく開いていきます。
ベテランにしてみれば、
「なぜこんなに遅いのか」と不思議に思うかもしれません。
歩幅も、呼吸の整え方も、足の置き方も、体に染みついているからです。
一方の初心者は、必死についていこうとしても、
息が上がり、足がもつれ、景色を楽しむ余裕すらありません。
ここでベテランが「もっと早く歩け」と
急かしたら、どうなるでしょうか?
初心者は萎縮し、焦り、やがて登山そのものが
嫌いになってしまうでしょう。
悪いのは初心者ではありません。
ベテランが「自分の物差し」で
相手を測ってしまったことが原因です。
「これくらいできるでしょう」
「もっと手早くできるはず」と……
実は、歯科医院の院内でも
これとよく似たことが起きています。
院長にとっては当然の基準が、
スタッフには当然ではない。
ここを見誤ると、
教育も人間関係も崩れやすくなります。
とくに真面目な院長ほど、歯科医療に真剣です。
診療の質を守り、患者に誠実であろうとします。
それ自体は非常に大切です。
ただ、その熱量をそのまま
スタッフにも求めてしまうと、
ズレが生まれます。
そしてそのズレを能力不足や
やる気不足と決めつけてしまうと危険です。
私は歯科医師として開業し、
経営難も経験したうえで、
200以上の歯科医院経営改善に携わってきました。
そこで何度も感じたのは、
『スタッフ問題の多くは、
人の善悪ではなく前提の違いから起きる』
ということです。
今回のテーマは、院長が自分の物差しで
スタッフを見てしまう落とし穴です。
先生の歯科医院では、ここを出発点とした
溝やギャップが静かに広がっていませんか?
院長とスタッフは、そもそも前提が違う
まず理解したいのは、院長とスタッフは
同じ歯科医院で働いていても、
背負っているものが違うということです。
院長は経営者です。
診療の質、資金繰り、採用、離職、
設備投資まで最終責任を負います。
一方でスタッフは被雇用者です。
大切な存在ですが、
責任の種類も重さも同じではありません。
ここを混同すると、
「なぜ自分ほど真剣ではないのか」
という不満が生まれます。
しかし、同じ熱量を前提にすること自体が、
無理のある設定だと言わざるを得ません。
経験差がある以上、できて当然ではない
院長は院内のほぼすべての流れを見て、
長年判断してきています。
だから優先順位の整理も、次の一手の予測も速い。
しかしスタッフは、見えている範囲が部分的です。
経験が浅ければ、
処理の質やスピードで差が出ます。
ここで院長が自分の基準を当てると、
「なぜ遅いのか」「なぜ気づかないのか」と
苛立ちやすくなります。
でも実際は、
見えている情報量が違う
だけということも多いのです。
院長が強い領域、スタッフが強い領域
歯科医療の知識と経験では、
多くの場合、院長が圧倒的に上です。
診断や治療方針は、院長が主導すべきでしょう。
ただし、院内のすべての事柄で
院長が最も的確とは限りません。
患者の表情の変化、受付での不安、
言葉にならない違和感などは、
スタッフの方が敏感なことがあります。
なぜならスタッフは、
待合室、受付、会計、電話など、
患者の感情が出やすい場面に
継続して触れているからです。
スタッフの方が現実感を持つことも…
院長は歯科医療の専門家です。その一方で、
歯科大学進学、勤務、開業という流れの中で、
一般企業的な摩擦や多様な立場の人との関わりを
十分に経験していないことがあります。
一方でスタッフは、別業界での接客や組織経験を
持っていることがあります。
そうだとすると、言い方や受け取られ方、
場の空気の読み方では、
スタッフの方が現実感を持つ場合があります。
とくに危ないのは、
院長に悪気がない場合です。
正しいことを言っているつもりでも、
スタッフには『責められた…』と
伝わることがありえます。
患者理解と社会経験の差を軽く見ると、
院長は知らないうちに独善的になりやすい…
ここは強く用心したいところです。
院長の基準設定の見直しを!
では、どうすればいいのか。
結論は明確です。
スタッフの質を嘆く前に、
院長の基準設定を見直すことです。
甘く見るのではありません。
立場と経験の差を前提に、
伝え方と任せ方を変えるのです。
院長基準のまま指示すると、スタッフは
「何をどこまでやればよいか」が分かりません。
期待値は、必ず言語化する
院長の頭の中にある
「当然」は、言葉にしなければ伝わりません。
たとえば受付対応でも、
求める行動を具体化することです。
・不安そうな患者には一言添える
・次回予約で迷いを残さない
・キャンセルの兆候を拾う
・気になる点は院内で共有する
「気を利かせて」では伝わりません。
再現できる形に落とすことが、
教育の出発点です。
任せる範囲の線引き
スタッフは院長ではありません。
ですから判断まで丸投げして、
失敗だけ責めるのは無理があります。
一方で、管理し過ぎれば考える力は育ちません。
そこで必要なのは、任せる範囲の整理です。
・院長が最終判断する領域
・スタッフが提案してよい領域
・スタッフが即時対応してよい領域
・必ず報告が必要な領域
この線引きが曖昧だと、
萎縮か暴走が起きやすくなります。
患者理解のセンサーとして
スタッフは、
院長が見落としやすい変化を拾っています。
待合室での沈黙…
受付での言いよどみ…
会計時の表情の硬さ…
こうした変化は、離脱やキャンセル、
自由診療の不成立の予兆かもしれません。
だからスタッフには、
患者理解のセンサーとしての役割も
持たせることが大切です。
「気になった患者はいたか」
と、朝礼や終礼で確認するだけでも、
院長一人では見えない情報が集まります。
スタッフに注意する前に
スタッフに注意したくなったら、
まず自分に問いかけてください。
それは能力の問題か?
それとも前提共有の不足か?
もし前提共有の不足なら、
責める前に説明が必要です。
もし役割設計の問題なら、
仕組みの見直しが先です。
院長に必要なのは、
正しさをぶつけることではありません。
相手が動ける形で伝えることです。
これができるようになると、
スタッフ管理は大きく変わります。
まとめ
院長とスタッフがぶつかる原因は、
性格の悪さや努力不足ではありません。
多くは、立場、経験、責任、
見えている情報の違いです。
院長は歯科医療の知識と判断で
歯科医院を引っ張る存在です。
一方でスタッフは、
患者の感情や院内の空気を拾う力で
歯科医院を支える存在です。
この違いを理解せず、自分基準で
評価し続けるとどうなるか…?
正しいことを言っているつもりでも、
院内の空気は悪くなります。
そしてそれは経営上の損失です。
だから先生に持っていただきたいのは、
自分が正しいかどうかより、
相手が動ける伝え方になっているか
という視点です。
まず今日から実践してほしい一歩は、
スタッフに注意したくなった場面で、
すぐに言う前に、こう自問することです。
「これは能力不足か?、
それとも前提共有不足か?」
この一呼吸だけで、伝え方も、育ち方も、
歯科医院の空気も変わり始めます。









